湯川秀樹は1907年1月23日、小川家の三男、五人目の子供として東京の麻布に生をうけた。
のちに「中間子」の存在を予言するこの日本の理論物理学者が生まれた当時、世界で最も小さな物質の単位は「分子」であると考えられていた。
京都帝国大学を卒業後、無給の助手として不遇をかこっていた彼は、結婚を機に妻の姓「湯川」を名乗り、
京都帝国大学そして大阪帝国大学において講師の職を得る。
そして1935年、28歳で論文「素粒子の相互作用について」を発表。
この湯川の論文は、どうして陽子同士が反発して原子核が砕けてしまわないのか、という疑問に答えるものだった。
原子核にはプラスの電荷をもつ陽子と電荷をもたない中性子がる。常識的に考えれば陽子同士が反発するはずである。
マイナスの電荷をもつ電子は、電気的に陽子への影響を与えるにはあまりに遠く離れている。
湯川は、原子と中性子が未知の粒子をやりとりすることによって結合を保っていると考えた。
湯川はこの粒子の性質を理論的な計算によって導き出し、その重さを140MeV(メガ電子ボルト)と予言、
陽子と電子の中間程度の重量であることから、「中間子」とよばれるようになった。
革新的で、これまでの物理学の常識を覆す内容であった湯川の「中間子論」は、発表当時は彼の期待していたであろう高い評価を得られなかった。
しかし、1947年にパウエルが実験の結果、湯川が予言していた粒子、つまり「中間子」を発見した。
彼の予言は正しかったのである。
1948年、オッペンハイマーよりプリンストン高等研究所の客員教授として招聘を受ける。
実はオッペンハイマーは、湯川28歳当時の論文を評価せず、彼が審査していた専門誌への掲載を断っていた人物だった。
湯川の理論は世界的に認められたのである。
1949年、いまだ敗戦の痛手癒えぬ荒廃した日本全土を狂喜させる出来事が起こる。湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞である。
日本人初のノーベル賞受賞は、連日新聞にとりあげられ、日本国民を大いに励ますこととなった。
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